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      カテゴリ:ワールドニュース > 歴史

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      1:最速ニュース+な 替刃 ★ 2019/01/07(月) 07:49:23.01 ID:5BN1+sXU9
      つくば市ゆかりの戦国武将で、近年「常陸の不死鳥」の異名とともに人気が高まっている
      小田氏治(おだうじはる)(一五三一~一六〇一年)をテーマにした講演会が六日、市役
      所であった。小田氏研究で知られる常磐大の糸賀茂男名誉教授が登壇し、氏治は「戦国最
      弱」とも言われるが、低い評価を見直されるべきなどと解説した。

      氏治は何度も戦いに敗れながらも、居城を奪い返したり、合戦を生き抜いたことで知られる。

      http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201901/CK2019010702000133.html

      【【茨城】戦国最弱じゃなかった?常陸国の武将 小田氏治 】の続きを読む

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      1:最速ニュース+な みんと ★ 2018/12/27(木) 11:22:05.88 ID:CAP_USER9
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      織田信長と激しく対立した浄土真宗の僧侶、顕如が、信長の死後、羽柴秀吉に接近しようと書いた書状が2通見つかりました。秀吉宛ての書状はほとんど残っていないということで、調査にあたった専門家は「この段階で、秀吉を権力のある人物と認識していたことがはっきりと分かる貴重な史料だ」と指摘しています。

      この2通の書状は、東京大学史料編纂所がインターネットオークションで購入し、内容や紙の質などからいずれも浄土真宗の僧侶、顕如の書状と判断しました。

      顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたって織田信長と激しく対立し、和睦のあと、拠点としていた大坂の石山本願寺を出て紀伊、今の和歌山県に移っていました。

      調査にあたった史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、書状は、1通が、信長が討たれた「本能寺の変」の翌年の天正11年=西暦1583年に書かれたと考えられ、大坂に入ることになった秀吉に対してあいさつのため使者を送るという内容です。

      もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀などを献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位をもらった天正12年に送られたとみられるということです。

      顕如はそれぞれの書状を送ったあとに、大坂の中心部に近づくように拠点を移していることから、村井准教授は、大坂に戻るために秀吉に接近しようとしていたことがうかがえるとしています。

      秀吉宛ての書状は、その後、豊臣家が滅亡したことからほとんど残っていないということで、村井准教授は「秀吉が完全に天下を取っていない段階で権力のある人物だと認識して、政治的な運動をしていることがはっきりと分かる。当時の政治状況が分かる貴重な史料だ」と指摘しています。

      村井准教授によりますと、天下統一を成し遂げた秀吉には、家臣などから多くの書状が送られていたと考えられますが、秀吉宛ての書状はこれまでに数点しか見つかっていません。

      その理由について村井准教授は、「大坂の陣」で豊臣家が滅亡した際に、城にあった書状もなくなってしまったと考えられるとしています。

      今回の書状は、捨てるために集められていた書状の中から持ち出されたり、秀吉に仕えていた人が記念にもらったりして、今に伝わったと考えられるということです。

      また、書状はいずれも、花押と呼ばれる顕如の署名があった部分が切り取られていました。その理由について村井准教授は、
      ▽江戸時代に流行した武将などの花押を集めた本に貼り付けるために切り取った、
      ▽顕如の花押を別の本などに貼り付けて文書を偽造しようと考えた、
      ▽門徒が信仰心から切り取った、
      という3つの可能性を挙げています。

      村井准教授は「秀吉が受け取った書状は、基本的には残すものではないうえ、家も滅びているので数は圧倒的に少ない。花押がないことからもいろいろなことが考えられ、大変おもしろい史料だと思います」と話しています。

      NHKニュース 2018年12月27日 4時20分
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181227/k10011760891000.html

      【【歴史】織田信長と対立した石山本願寺の顕如が、秀吉に宛てた書状見つかる 】の続きを読む

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      volcanic-eruption-67668_640

      1:最速ニュース+な みつを ★ 2018/11/17(土) 06:32:15.15 ID:CAP_USER9
      https://jp.sputniknews.com/incidents/201811175593726/

      人類史上最悪の年 ハーバード大研究者が選ぶ
      災害・事故・事件
      2018年11月17日 06:03

      米ハーバード大の考古学者らと中世史学者らが、人類史上最悪の年は紀元後536年だと決定した。全地球上で超大型火山が噴火したことが理由だ。人類がこの影響から完全に脱却するには100年を要した。科学ニュースサイト「ScienceAlert」が報じた。
      スプートニク日本

      「ScienceAlert」によると、考古学者で中世史学者のマイケル・マコーミック氏によると、536年は黒死病で欧州の人口3分の1が死んだ1347年や、大飢饉が起きた1918年、そして1945年よりひどい。536年には大規模な戦争はなく、536年、イタリアと南極大陸、グリーンランドで大規模な火山の噴火が起きた。研究者らは、現在のイタリアとスイスの国境沿いにあるニフェッティ峰(Colle Gnifetti)の氷河を分析し、こうした結論に至った。噴火の影響で続く約100年間、大気中に大量の噴出物が漂った。気温を下げ、干ばつと不作、大飢饉を引き起こしただけでなく、中国で夏に雪が降った。

      【【人類史上最悪の年は紀元後536年】ハーバード大研究者が選ぶ 】の続きを読む

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      1:最速ニュース+な みんと ★ 2018/11/16(金) 12:44:27.73 ID:CAP_USER9
      「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
      2018年11月16日 12時24分
      NHKニュース
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
      no title


      明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

      今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

      郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

      書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

      調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

      調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。

      【【歴史】「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる 】の続きを読む

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      1:最速ニュース+な 記憶たどり。 ★ 2018/10/18(木) 10:00:45.00 ID:CAP_USER9
      https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/458324/

      旧日本海軍連合艦隊司令長官だった山本五十六(1884~1943)の遺髪が、海軍兵学校時代の親友だった
      旧海軍中将堀悌吉(1883~1959)=大分県杵築市出身=の遺品の中から見つかった。
      これまでに山本の遺書とされる「述志(じゅっし)」や手紙も確認されており、ともに戦争に反対していたとされる
      2人の絆を裏付ける資料という。大分県立先哲史料館(大分市)が17日、発表した。

      続きはソースで


      堀悌吉が身近に飾っていたとみられる山本五十六の肖像写真。裏に遺髪が隠されていた(大分県立先哲史料館提供)
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      堀悌吉
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      【【山本五十六】非戦訴えた友へ遺髪 堀悌吉中将が飾っていた山本長官の肖像写真の裏から発見 大分県立先哲史料館】の続きを読む