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      カテゴリ: 歴史

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      1:最速ニュース+な みつを ★ 2018/11/17(土) 06:32:15.15 ID:CAP_USER9
      https://jp.sputniknews.com/incidents/201811175593726/

      人類史上最悪の年 ハーバード大研究者が選ぶ
      災害・事故・事件
      2018年11月17日 06:03

      米ハーバード大の考古学者らと中世史学者らが、人類史上最悪の年は紀元後536年だと決定した。全地球上で超大型火山が噴火したことが理由だ。人類がこの影響から完全に脱却するには100年を要した。科学ニュースサイト「ScienceAlert」が報じた。
      スプートニク日本

      「ScienceAlert」によると、考古学者で中世史学者のマイケル・マコーミック氏によると、536年は黒死病で欧州の人口3分の1が死んだ1347年や、大飢饉が起きた1918年、そして1945年よりひどい。536年には大規模な戦争はなく、536年、イタリアと南極大陸、グリーンランドで大規模な火山の噴火が起きた。研究者らは、現在のイタリアとスイスの国境沿いにあるニフェッティ峰(Colle Gnifetti)の氷河を分析し、こうした結論に至った。噴火の影響で続く約100年間、大気中に大量の噴出物が漂った。気温を下げ、干ばつと不作、大飢饉を引き起こしただけでなく、中国で夏に雪が降った。

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      1:最速ニュース+な みんと ★ 2018/11/16(金) 12:44:27.73 ID:CAP_USER9
      「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
      2018年11月16日 12時24分
      NHKニュース
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
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      明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

      今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

      郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

      書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

      調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

      調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。

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      1:最速ニュース+な 記憶たどり。 ★ 2018/10/18(木) 10:00:45.00 ID:CAP_USER9
      https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/458324/

      旧日本海軍連合艦隊司令長官だった山本五十六(1884~1943)の遺髪が、海軍兵学校時代の親友だった
      旧海軍中将堀悌吉(1883~1959)=大分県杵築市出身=の遺品の中から見つかった。
      これまでに山本の遺書とされる「述志(じゅっし)」や手紙も確認されており、ともに戦争に反対していたとされる
      2人の絆を裏付ける資料という。大分県立先哲史料館(大分市)が17日、発表した。

      続きはソースで


      堀悌吉が身近に飾っていたとみられる山本五十六の肖像写真。裏に遺髪が隠されていた(大分県立先哲史料館提供)
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      堀悌吉
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      【【山本五十六】非戦訴えた友へ遺髪 堀悌吉中将が飾っていた山本長官の肖像写真の裏から発見 大分県立先哲史料館】の続きを読む

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      1:最速ニュース+な 樽悶 ★ 2018/10/09(火) 22:21:26.43 ID:CAP_USER9
      戊辰戦争について語る(左から)宗像、稲川両館長、道迫学芸員
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       戊辰戦争に関わりが深い会津、越後、長州の3地域によるフォーラムが6日、新潟市で開かれた。パネリスト3人がそれぞれの立場から歴史認識について意見を交わした。

       會津藩校日新館(会津若松市)の宗像精館長、東軍として戦った長岡藩士河井継之助を顕彰する河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、西軍の主力となった長州藩があった山口県萩市の萩博物館、道迫(どうさこ)真吾主任学芸員がパネリストを務めた。

      続きはソースで 

      福島民友 2018年10月07日 12時00分
      http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181007-313962.php

      【【新潟】戊辰戦争…会津藩に「愚直さ」あった 長州藩は「変化に柔軟だった」 会津、越後、長州が語る 新潟でフォーラム開催 】の続きを読む

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      1:最速ニュース+な 樽悶 ★ 2018/09/27(木) 03:35:07.39 ID:CAP_USER9
      「明治維新と水戸」をテーマにしたシンポジウム=水戸市三の丸
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      ■斉昭の役割も考察

      「明治維新と水戸」をテーマにした明治維新150年記念シンポジウムが22日、水戸市三の丸の常陽芸文センターであり、最後の将軍徳川慶喜や水戸藩主徳川斉昭の果たした役割などを考察した。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、大坂城から脱出して海路で江戸に向かった慶喜について、専門家が「戦う勇気がなかった」「戦っていたら日本が消えていた可能性があった」と論戦を交わした。

      続きはソースで

      茨城新聞 2018年9月26日
      https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15378732475181

      【【茨城】「戦う勇気がなかった」「戦っていたら日本が消えていた可能性があった」 徳川慶喜の大坂城脱出で論戦 水戸でシンポ 】の続きを読む